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おすすめポイント・寄り道ポイント |
A 錦町役場(にしきまちやくば)
錦町は、昭和30年7月1日に旧西村、一武村、木上村が合併して錦村を設置、昭和40年4月1日町制を施行、熊本県南部に位置する人口は約11,000人の町。総面積は85.04kuでその58%が森林。町の南部では、梨、桃を生産、球磨川沿いの平野では米の生産が多く、北部では、お茶が生産されている。
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B 丸目蔵人佐の墓(まるめくらんどのすけのはか) 丸目蔵人佐は、天文9年(1540)八代郡に生まれ、少年時代からたくましく育ち16歳にして初陣し戦果をあげた。17歳の時、天草本渡城主天草伊豆守の下で2年余にわたり兵法の修業をしている。京都の新陰流の達人上泉伊勢守信網に師事し、伊勢守門下の四天王の一人として新陰流の免許状を授けられた。後に新陰流崩しのタイ捨流を考案した。寛永6年(1629)5月7日、90歳で没した。
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C 下り山須惠窯跡群(さがりやますえかまあとぐん) 昭和41年(1966)の春、山火事をきっかけに発見され、同年夏9基が発掘された。9基の内3基は山の斜面に沿って、地中にトンネルを掘って作った地下式、他は天井の部分だけ別に付ける半地下式の窯。奈良・平安時代に営まれ、多くの須惠器片と、「宇土郡」と刻まれた欠片も出土している。
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★下り山神社(さがりやまじんじゃ)
社殿は切妻造、瓦葺、間口5間、奥行2間、奥壁に間口153.5cm、奥行107cmを送り出して社殿としている。祭神は大山祇神。山の神の御神体7躰が祀られている。6躰は木造の神像で、1躰は窯道具もしくは窯壁の一部と思われる灰釉のかかった陶質の物体であり、地域の人はこれを“がらんさま”と称している。
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★狩政の薬師堂(かりまさのやくしどう)
お堂は切妻造、瓦葺、平入、間口・奥行315cm。仏像は総高50cm、 像高33cmの木造薬師如来像だったが、平成6年に盗難に遭い、現在は台座のみが残されている。お堂前のセメント造りの祠の中に、 半跏踏み割りの石造地蔵菩薩像が安置されており、昭和55年8月の銘がある。
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D 桑原家住宅(くわはらけじゅうたく)
人吉球磨地方に多く見られた鉤屋型の民家で、建築年代は江戸時代後期(1815年頃)と云われている。母屋は、ざしき、あらけ、なかのまの3部屋が一列に並び棟と、これに鉤型につながるだいどころ、とうじの2部屋がある棟から構成されている。客間であるざしきは前面に玄関を構え、床の間をもつ整ったもので、居間のあらけの前にも玄関が設けられており、接客用に格式を整えた武家屋敷らしい趣がみられる。
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★上田農具刃物製作所 (うえだのうぐはものせいさくじょ)
創業約126年を数え、素材軟鉄からハガネ鋼の選定に力を注ぎ、伝統の製法、技法を守り、新しい形状とデザイン、アイデアを取り入れ製法を特許として製品化している。 家庭用包丁、本職・特殊包丁、工芸用刃物、農耕用刃物、林業用刃物
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★常楽酒造(じょうらくしゅぞう)
大正元年に球磨郡水上村湯山で創業。平成6年錦町に新工場建設移転。球磨川水系の水と原料にこだわり、焼酎原酒を樫樽で長期貯蔵熟成している。焼酎とリキュールを製造している蔵元。
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★西迎寺(さいこうじ)
浄土真宗本願寺派。阿弥陀如来立像。天正年中(1573~1591)、肥後国八代郡種山村(八代市東陽町)に光林寺として建立された。この光林寺の境内に別堂が建立され、西迎庵と代々承継してきたが、明治10年の西南の役の戦火で焼けた為、元八代郡和鹿村(現在:氷川町)に移転し、明治12年8月西迎寺と改称。明治30年4月15日県庁の許可を得て現在地に移転。
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★元忠ケ原の地蔵堂(もとちゅうがはるのじぞうどう)
お堂は切妻造、瓦葺、平入、間口300cm、奥行400cm、向拝1間。3躰の仏像が祀られており、中央に、総高55cmの石造地蔵菩薩坐像、右側に総高65cmの石造地蔵菩薩立像、左側に頭部が欠損した総高64cmの石像地蔵菩薩坐像。また、頭部が欠損した石造大師像も祀られている。
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